昭和46年02月10日 朝の御理解



 御理解 御神訓、一「天が下に他人という事は無きものぞ。」

 私は今日御祈念中に『骨肉愛』と言う事を頂きました。骨肉相食むと言った様な事を言いますね。けれどそれでなくて骨肉愛、そしたらその今日の御教話を頂かして頂こうと思って御教典を頂きましたら、御神訓「天が下に他人と言う事は無きものぞ」と言う事。私は今日程この御神訓をですね、ああ成程とああ素晴らしい事だなと、言う事をまぁ実感させて頂いとる訳でございますけれどもね。
 いうならば、人の難儀がじっとして見ておられないという、それが自分の肉親の者としての見方というかね、感じが感じ方そう感じる。他人の事ではない。こう言う様な骨肉愛と言う事、どういう意味か知りません。あとは分かりませんけどね。そんな感じがする。それが例えばね、天が下に他人と言う事は無きものぞというのですから、地球上に生を頂いておる人間、これは黒であろうが黄であろうが白であろうが人種に差別などがあろうはずが有りません。
 天地金乃神様の御目からご覧になれば、皆が可愛い氏子に違いないのです。ですから、どうぞひとつ世界中のことが祈られ願われ、又は天が下に他人というは無きと仰るのですから本当は、いわゆる肉親愛というかね、分かりませんがここは骨肉愛と言う事、これでもないか。ところがなら一切の世情に現れている様相というものは、真に骨肉相食むといったような状態じゃなかろうかと。
 事物・事金、自分の便利にならないようなことがあったらそれが親子であろうが、兄弟であろうがです、その為に血を流したりしておるといった様なのが私は現在の世の中状態じゃなかろうかと。骨肉相食むと言った様な様相を呈しておる。金銭の事だけはは親子でも他人と言った様な考え方、これではいつまでたっても世界の平和等は及びも付かないこと。これは私が昨年中言うて参りました。
 いわゆる和賀心時代を目指すと、合楽に御神縁を頂いとる皆さんがです、本当に信心を分かると言う事は自分の心が和賀心になっていく事。和の心とは言わばどの様な事の中にでも和していくと言う事。行けると言う心。只普通で和と申しますよね、ただ平和の和と。そういうもんじゃない。どの世の中にでも和して行けれる。どの世の中にでも和して入って行けれるということ。それは清きところも汚きところもどの様な中にでも和して行けれる心。賀の心を教祖様は祝い喜ぶ心とおっしゃった。
 祝賀の賀じゃとも仰った。自分の心がいわゆる赤飯炊いて祝いしたいと言う様な事なんです。そういう心に人間氏子の一人一人の心の中に、そういう心に成れると言う事は至難の事であっても、そういう心にならなければ人間の幸福はあり得ないんだとまあ分かること。それを私は昨日和賀心学と申しました。だからそういういうならば学問なら学問が、和賀心学なる学問が生まれて、それが世界の隅々のいうならばそれが義務教育と言った様な事までならなければならないと言う風にも、私し昨年申しました。
 ま今年もやはり、又その願いを祈りを持ち続けておる。私共の祈りが全人類の祈りになる働きを表し給え。私共の祈りが世界中に広がる働きを表し給え。これは去年も今年も変わりません。そげな大きな事ばっかり言うてから、もう絶対ですね。私共がおかげを頂いて信心がだんだん成長して参りましてです、自分だけの事じゃない。自分の周囲の誰彼の事がです、いわゆる肉親といわゆる骨肉の愛情を以てす思われるようになって来る。それが神心なのです。
 仏教が慈悲を説き、キリストが愛を説く時にその愛も慈悲もこの神心の前には私は或る意味では小さいもんだと思うです。教祖はその神心を説かれた。そしてその神心に成る事を願われた。いや、神になる道を説かれた。そこから発して来る心、それが神心なのです。私共が神心にならせていわば、自分の周辺を眺める時、世界中の事を思う時、私はほんとにこの天が下に他人と言う事は無きものぞと言うその実感がですね。
 テレビ等でベトナムの戦争の模様などがね、出て参ります時に本当に人事とは思われない。本当に世界真の平和を祈り願わなければ居られない。それは骨肉愛を以て進むならばそう願わなければおられなくなってくるのは当然の事である。私は先日総代会が毎月ございます。一昨日でしたか、その話し合いの有っとる中ばに私も入らせて頂いてから開口一番その事を総代さん方に申しました。
 皆さん貴方方の信心がね、いわゆる合楽教会の総代としてのね、小さい意味に於いての総代ならば、貴方がたにいっちょも私の言い分、願うところは無い。まあこれがどこどこ教会、自分の総代さん方に比較するならそれこそ、まぁ大甲の上だと私し。そうでしょうね、例えば総代さん方が全部集まって朝の御祈念に参って来て、教会の行事万端の事に就いてお取り次ぎを頂き願われると言ったような教会は聞いたことがない。それだけ行き届いた信心が出来よる様な総代さん方って聞いたことない。
 それは一人か二人かはね他所にござるとしても、全部の総代さんがその気で毎朝お取り次ぎを頂いて信者一同の事を願っておられると言った様な教会は未だ聞いたことが無い。ですからそういう意味に於いての信心にはあなた方にどうこう言う事はないけれおもね。私の願いというのが、どこまでもです私共が頂いておる信心、そしてそれに伴うところのおかげをひっさげて世界の市場に出さなければならんのがと。教会愛とか例えば教会の為にとか、お道ん為にとか私の考えはそんな小さいものではないのだ。
 教会のためとか道のためとか、成程それは尊い有り難い事だけれども、私の願いは一応どこまでも世界の中の上に心が広げられてある。願ってあるのだと。世界中の氏子がそれそれの立場にあって立ち行くことを願ってあるのだ。だから、そういう願いを中心にした教会に御縁を頂いて居る。総代としての自覚を持って欲しい。してみると今のあなた方の信心では駄目だと。余りにマイホーム的だと言う事を聞いてもらった。これは総代だけの事ではありません。
 合楽に御縁を頂いておる信仰者の一人一人の上にです、どうぞ私が健康になりますように、私の店が繁盛します様に只私が健康になりますようにと言った様な願い、いや願いはそれでよいけれどもその根本的なところが放されてはならんのだ。前教主様が仰っておられます様に、例えば自分の家の前を掃かせてもらう。自分の門口を掃かせて頂くことも世界中が清められておるんだと思うてとおっしゃっておられます。
 自分方の前だけ綺麗にしとけばよかと、そげな小さい考えではいけません。よそのうちの家の前はごみでも何でもはねくりけちから、他所の家の前にはねちらかすことになる。そんな考えでは、人なんかどうでもよいと言う事になる。けどそれは成程自分の家の前の門口を掃いとるには違いないけれども。そのことがです世界の一部が清まっておるんだという気持ちという。私は今日の焦点はそこだとこう思うんです。
 成程商売繁盛も願わなければならん。健康にもならなければならない。人間関係に、その度に難儀というあらゆる難儀から助けられなければならないけれどです、その助かるとその事がです、世界の助かりに繋がっておらなければならないと言う事なんです。大変な違いでしょうが。私が儲け出す事は願ってよい。商売繁盛のことは願わなきゃならん。けれどもそれだけでは、いわゆるマイホーム主義的なおかげに終始してはつまらんのだ。私の家の繁盛がそのまま世界の繁盛につながっとらにゃならないと言う事。
 思いが替えられる。なら思いが替えられると言う事は親先生がそうおっしゃったけん、今日からそげん願う、そげん替えようではいけん。いわゆる本気で私共が和賀心時代をですね、広げて行くために先ずは私の心の中に、私の家庭の中にです和賀心のいわば雰囲気というかね、有り難いものが無からなければならない。今日は和賀心はどの様な事の中にでも和して行けれる。只自分の心が穏やかであればよいなんてそんな生易しいものじゃない。自分で自分の心の中に穏やかな心があっても、これははあ普通で言う和の心かも知れないけれども、教祖の仰る和の心というのはです。
 例えばその穏やかな心が和の心だなと。けれども一寸自分に損になる事が起こって来るとね、もう心が乱れるんです。その乱れる心の中にでも和して入って行けれる心なのである。教祖がいわゆるおかげは和賀心に在るとおっしゃるおかげが頂ける、和の心はそういうなんです。賀の心というのは、自分の心の中にいつもなんか赤飯でも炊いて祝わにゃ居られんといった様な心。祝賀の賀とおっしゃる。なら今日申しますお話しのかかりならば、いわば神心なんです。
 自分の心の中に神心が、いやが上にも募ってくるのである。そこからです私しは世界の人間氏子がです助かって行かねばならない。それは皆の同胞なのだ。いわゆるうからやからと同じなんだ。そういう思い方が実感として頂けてくる感じ。そこに信心が本当におかげを頂かなければならないと言う事に成ります。昨日は善導寺の久保山家の謝恩祭でありました。東京に居ります二番目の息子、飯塚に居ります三番目の息子、娘皆んな集まって、昨日飛行機でギリギリ帰って参りまして。
 一番口にここへ出て参りましてから、いろいろ届けるそのことを聞かせて頂いてね、この人おかげ頂くなあと思いました。おかげを頂いて寿司屋を。然し考えて見るとね十八年間ね、辛抱したんですからね。もう三年目位からもうそれこそ引く手あまたでした。もう大きな会社とかね、重役さんとか社長さんが君がやるならここで店を開かないかと言われるたんべんにお伺い、毎年お伺いでした、もう店を止めて出すとこういう、いうならば安い給料で縛られていうならば十八年。
 もうそれこそもう、もうどうして親先生はいつまで待ったら一職人で、その甘んじとる気持ちは無いのに十八年間も辛抱し抜いた。どうですか十八年間経ってから御許しを頂いてからお店を持ちましたが、勿論資本も有りませんから、まぁ本当に万事万端の上にお繰り合わせを頂いて、小さい店を新宿に開きまして三ヵ月間はやはり赤った。四ヵ月目からずうっと鰻のぼり、もうそれはもう本当に良く働きます。
 今度又今の店から千五百メートル位しか離れてない所にお店を持ちたい、それもまヒイキと云うんですかねファンというんですうか偉い人のお引きそこに店が出せれる様になったそのお届けをしておりました。現在の今の新宿の方の店は殆ど六時頃から夜中にかけての繁盛だそうです。親先生その繁盛振というのはね、只凄まじいばかりでございます。それから、今度持たせて頂こうという店は昼間だけのお店だそうです。だから自分というものをもう昼夜なしに打ちはめようとしておる姿勢が感ぜられます。
 毎日河岸にいわゆる魚市場ですね、河岸に参りましてから、もうそれこそもう肩に食い込むごと沢山のいわゆる寿司のネタを仕入れて来るわけですけどもね。これが重い時ほど有り難いと思います。店の人が途中までむかえに来て呉れるそうですけど、もう本当にこれが食い込む程のいわば痛い様な沢山の修行をさして頂く時ほど有り難い。それがいうならば日まさり月まさりに繁盛して行っているおかげをね。
 私は思わせて頂きますのに、その和して行く心のというのはですね、どんなに重いきつい中でもね、有り難くなる心だと思うです。私共が五体の動く限りもうそれこそ、成り振りを構わずお寿司屋さんとしてのユニホームとでも申しましょうか、あの白衣だけだ。いつもいつも帰って来るでも、もう洋服なんかちょっと古着屋で買うて来たといった様な洋服着せとります。昨日参りましたら初めて皆さんがネクタイ締めとりました。若先生があらネクタイはめて来ちゃるちゅうて言いよりました。
 贅沢せろと思えば今どんな贅沢でも出来るでしょう。これはもう又何十年前親先生から頂いとったネクタイたい。あらほんにそげん言えば上げとったねちゅうた事です。それこそ成り振り構わずそれこそ昼も夜もなしにいわば打ち込んでおる。親先生最近はいわゆる家内ですね、いわゆる女房が申します。家のお父さんがもう東京ちゃ亭主ちゅう家の亭主が一生懸命働くけれども、働いただけでこういう繁盛になる筈はない。
 神様のおかげ頂かなければ出来る事じゃ無いと言う事を、この頃家内も子供もそれを感じておる様です。もう神様中心、神様第一主義だから家内に分からせにゃん。子供に分からせにゃんというけれど、本人自身がね、本当に分かっておったらね。家内に子供に伝わって行かん筈がない。そして夜女房に話しております事ですけど、俺たちが本当に五体が続く限り一生懸命御用さして頂いて、まあ一軒は二軒、二軒は三軒というならばお店でも拡張していけれるおかげも頂くでしょう。
 そしたらそこに、打ち込んでいるいわば小僧なり、でっち職人さん達ですね、もうあのうすぱぁっとそのままやって、合楽に引き上げさして頂いて、それこそ総代の御用どもさせて頂いて、おかげを頂きたいと、女房と話よりますと。自分というもの中心じゃない。この店に打ち込んでくれる、いわば店の人達が有るなら、もうその人達にやって帰って来るちゅうのでる。昨日、炬燵の間でそうやってその話さして頂いたら急に大声を上げて泣き出した。神様の凄まじい迄の働きと思うたら思わず感激した。
 ですから、私が皆さんにお願いしたい事はです。皆さんの心の中にどの様なことにでも和して行けれる。いうならばですこれは寿司屋の職人としてはもう、私は本当に素晴らしい腕の人である。人物も又お寿司屋さんに丁度向いた人である。その人が十八年間も親先生から今年も辛抱しろと、今年も辛抱しろちゅうてよう辛抱して来たことだと思うです。そして実際なら舞台に出た時にはもう大向こうから拍手喝采が起った様な感じだった。天皇陛下にお寿司を握って差し上げられる程しの腕前。
 先日から三笠宮様が、お付きの方達を連れてから見えらえた。もう小さい店なんです。そんなに奇麗な店と言う事じゃ無いけれども、結局信用なんです、やはりお客様が意気に感じて下さるんです。稔さんしっかりやれ、応援は俺達がするぞと、いうないわばファンが十八年間に出来ておったと言う事なんです。それを自分の小さい考えで、自分のよか事して、その自分の良かことをした事を、神様にお願いしておかげを頂くと言う事等は、いわば桁が違う。
 私は桁の違う信心させて貰うて、桁の違うおかげを頂かせて貰わねばならんと思います。私共が和賀心を目指さして貰う。その和賀心を目指さして頂くのも。自分の心の中に在る和賀心を世界中に広げて行く。和賀心時代、人間がいわば月の世界にでも行けれる様な、高度な科学の時代が有るけれども、その科学の時代、その科学では人間が幸福にならないと言う事がう分かった。これから次に在るものは心の時代だ。それをお道の方でいうならば和賀心なのだ。
 その和賀心時代というものに、もう私七十年という年は突入したんだというふうに申しておりますね今日。その和賀心それに伴うところの凄まじいまでの神様の働き、そういう和賀心を世界の市場に出すという事はですね。素晴らしい御教え、素晴らしいいうならば教理というものをです世界に出す。それは素晴らしい御教えを持った宗教は沢山ありましょう。けれども、それではね。私は本当の事になって行かない。本当にね現物をそこに出させて貰って、いわゆる私共一人一人が。
 そういう凄まじい迄おかげを引っ提げて世界の市場に立たねばいけない。和賀心になればこういうおかげが頂けれるんだ。和賀心になればこの様に人間の幸福は有るのだという事を一人一人がね表して行かねば成らない。先ずは為には自分の家の前門口を掃かせて頂く事が自分方の表だけ綺麗になれば良いという様なけちな考えではなくてそれはもう世界の一部が清まっておるんだという様な思いに替えられなければいけない。
 私が今願っておる私共の祈り、だから私共の祈りというものは今の私が申しました様な内容を持ったところの祈りがです、全人類の祈りになる様な働きを表し給えと願わしてもらうと。そういう祈りが世界中に広がって行く働きを表させ給えと、そういう願いというものがです、天が下には他人という事は無きことぞと教えて下さる。本当に世の中には難儀な人が沢山有る。その難儀な人がですね、骨肉相食むと言う様な世情の姿を状態を思う時にもう他人事としは思われない。
 肉親のいわゆる骨肉の愛を以てこれが感ぜられるときです、これはどうでもこうでも私自身がおかげを頂かなければいけないと言う事になる。昨日期せずして或る修行生の方達が一人一人お伺いに出て参りました。丁度ここに皆んな集まりましたから、貴方がたがね、此処修行させて貰うて学院に行くと言う事はね、本当に世の中の難儀な氏子が取次ぎ助けられて行く。何日何処に布教するか分からないけどね。貴方がた自身が助かっておらなければ駄目なんだ。
 その為には学院に行くと言う事はもう私の体に神様に、のしを付けた様なものである。神様に捧げた様なものなんである。昨日或る修行生の方が、もう本当に私の様なと、いうならば汚い粗末な私は無いと気ずかせて頂いて自分がもう愛想もこそもない程に思うた。然しそこまで分った事は尊い事ぞと。だからそれをいうならば、どんなに取り組んでもその改まりが出来ませんが、けどあんたは今度学院に行くじゃ無いか。
 学院に行くと言う事は、もう自分というものを空しゅうする、いうならば死んだ気でですから、人間一遍焼き直さなければ、そんなにそげな骨の髄までしみこんどる様な事が中々改まる事じゃないよと、いうならば御本部にはもう死に行くのと同じ事。そこからいわばどうにもならなかった改まりが出来るだろう。その修行生が頂いておる藤の花のお知らせを頂いて、そこをがたがた幌馬車に乗って行きよるところを頂いて、それは合楽の今の姿かも知れません。
 成程藤の花も下から見上げられる様なこう花ですけど藤の花じゃいけん。どうでも日本一の富士の山というあの富士山を目指さなければいけない。だから、今あんたが頂いたお知らせという、藤の花と言うのはね、改まると言う事なんだ。この次死んだ気になっていわば改まるとなんだ。その改まりいうならば自分の今迄の垢を落とすことなんだ。その垢を落としそれに磨きを掛けられて行くところのの信心になった時が富士の山の、それこそ日本一的なおかげが受けられるであろう。
 凄まじい迄の働きを表すことも出来るであろうというて話したことです。ですからこれがね例えば、その持ち場立場はそれぞれに違いますけども、皆んながです金光大神の有り難い、いわば御教えを自分の身に頂いて、おかげをあらわしてそのおかげをです、世の中の難儀な氏子、一人でも多くの難儀な氏子にそれを取り次ぎ、伝えて行こうとする意欲というものは私共の心の中にいよいよ和賀心が、いうならば神心が募って来なければ出来る事ではありません。そこからです他人もなければ自分もない。
 その他人の難儀をみたらその難儀がです、肉親愛を以てその人の事が切に祈られる、願われる信心、そういう信心を皆さん願いとして頂きたいとこう言う事なんです。皆さんの願うとられることがいけないのじゃない。その願いが世界中の助かりにつながって行く様な願いに思いを置き替える事だと言う事なんである。
 けれども実感としてそれを頂かして頂くことの為には、矢張り何というても自分の心の中にね、神心がいよいよ募って来なければならない。本気で自分自身が心が磨かれて改まられて行くというおかげを頂かせて貰わなければですね、人のことなんかは思われん。私は神の大願と言う事を思うがね。神様の大願というのはね、本当に世界中の人間氏子が助かって行くことだと思う。神様の願というものは牛が助かってくれ、馬が助かってくれというもんじゃない。
 天が下の人間氏子が皆助かってくれるというその願いが神の私は大願だと思う。人間氏子が助かれば馬も助かる、牛も助かる。その為には私共は本気に助からなければいけない。その助かりがです、只マイホーム的な助かりではなくて世界の隅々までも伝わって行けれる程しの助かりにつながる程しの助かり。私は天が下には他人と言う事はなきものぞと教えておられることは私共一人一人が本当にそうだなと、ここを実感させて頂く事の為のように思います。
 自分の都合の悪い、自分に不利になると言う事であったら、それこそ親子でも兄弟でもいわゆる骨肉相食むような浅ましい世界から、赤のそれが他人であっても他人とは思われないという様な心を以てです、お互いが助かり合うて行くという願いをね、いよいよ募らせて頂くと言う事がです、この御教えに応える事じゃなかろうかとこう思うのです。天が下に他人というものは無きものだと言う事をです。
 私共が本当にそうだというふうに分からせて貰うと言う事も矢張り教えがいよいよ身についていかなければ本気で私の心が全どの様な難儀の中にでも和して行けれる心。どんなに重荷でも重ければ重い程有り難いと思われる心。そういう心が私は和賀心。おかげは和賀心にありとおっしゃる。心が何とはなしに勇んでくる。心が何とはなしにほんとに赤飯でも炊いて祝いたい様な心が起きて来る、そういう心をお互い目指させて頂いての信心頂かなければならんと思う。
 皆さん例えば皆さんの祈りの中にです実感として、どうぞ私共の祈り、いわば私しの祈りが今申しました様な内容が祈りになって来なければ駄目なんです。そこが全人類の祈りになる働きを表し給えと、私共の祈りが世界中に広がって行く働きを表し給えと祈り願われ続けれる信心。そこに神の大願がね、そこに少しづつでも成就して行くことによります。私共が助かりました。私共がこんなにおかげを頂きましたというだけであったら、それは、私は神様の本当の大願成就と言う事になって来ない。
 それは人間の願いが成就しただけにすぎない。神の大願が成就していく事の為に私共がね、奉仕させて貰うおかげを頂きたいね。どうぞ。昨日、一昨日ですね山口県の下田というとお路に小さな島が有ります。下田教会の教会長先生がお礼に出て見えました。お願いしとったそれこそお願いが成就して御礼参拝でした。で先生去年はここから修行生の方が三人もお出られたですねちゅうから、はあ三人、今年は五人行きますよ。あはぁ愈名実ともに日本一ですね。私は日本一を目指すと言う事じゃない。
 本当に自分の身を呈してね、人が助かる事の為に世の中の難儀に取り組ませて頂く。転身して行ける人達がね、だから来年は又六人か七人かにならにゃいけません。毎年多なって行くおかげ頂かにゃちゅうてから申しました。今年はその様に合楽教会にはその様な働きが有りよります。ですからお互いにね、どうぞそういう働きに便乗させて頂くところのおかげ、廻りまわって幌馬車でがたがたで行きよる様な事かも知れませんけれども、その道が素晴らしいな、素晴らしいいうなら自動車か汽車かの様な乗り物になったら有り難い。ここを目指させて頂きたいと思いますね。